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番外編 第三話

Author: 麻木香豆
last update Last Updated: 2025-09-11 06:19:00

 今思えば、あの頃の私はまだ何も知らない、小さな世界で生きている女だった。

 今ではもう、目の前の画面に映るものを「ただの映像」として処理できるようになったし、見たくもないものに対しても心の奥に無理やり鉄のシャッターを下ろす術を覚えた。相手を観察して、声のトーンを合わせ、時には軽口を叩いて彼らを楽しませる。そんな器用なふるまいをしている自分を、時折、別の誰かのように感じることすらある。

 でもあの頃は――まだうぶだった。画面越しに突然さらされる男たちの生々しいものに驚き、戸惑い、逃げ出したくなった。けれど今は、その一つ一つを冷静に眺め、笑顔を貼りつけて値踏みするくらいの余裕すらある。慣れた、というのは恐ろしいことだ。人はここまで順応できてしまうのかと、自分に戦慄する瞬間もある。

 ただ、それでも救いのような時間もあった。

 中には何も求めず、ただ世間話をしたがるだけの男性たちもいた。「最近寒いですね」「今日の仕事、疲れたな」――そんな、近所のコンビニ店員と交わすような軽い会話に、彼らは安心し、私もまたほっとすることがあった。女子校育ちで、元彼は数人、夫以外の男をよく知らなかった私には、それはむしろ社会勉強になった。

 世の中にはこんなに色々な男の人がいるんだな、と知る時間。それが、私をかろうじて人間らしく保ってくれていた。

 最初は肌を露出するだけでも頬が火照ったのに、今では一糸纏わぬ姿を晒すのも仕事の一部になった。羞恥心はいつのまにか溶けて消えた。

 それが悲しいことなのか、強いことなのかはわからない。

 でも――じゃないと、私たちは生きていけなかった。

 「最初はほんのお小遣い稼ぎのつもりだったのに」

 そう、最初は軽い気持ちだった。ほんの数時間だけの仕事で、欲しいものを買えるくらい稼げたら――それだけだった。

 でも次第に、私はどっぷりとそこに浸かっていくことになる。その背景には、明確な理由があった。

 ――夫だ。

 もともと私は大学を出て地元でOLをしながら、小劇団で舞台に立っていた。決して華やかな劇場ではないけれど、そこで息をするように台本を覚え、誰かの人生を演じていた時間は、私にとって何よりも大切だった。

 そんな私に声をかけてきたのが、劇団の先輩、橘綾人だった。舞台の上では王子様のように輝く彼に惹かれた――というよりも、当時の私は親の過干渉に疲れ果て
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